(現 西宮市 Yさん 2年前の手記より) 折りにふれ今も思い出すのは、
昭和19年9月10日より、学童集団疎開として、落合町で過ごした数カ月の
ことです。私は翌年6月、神戸の大空襲で家が焼失したため、最後まで落合に
止まらず、母の縁故をたよって、初夏の頃、落合を離れました。
まもなく60才になる今、当時御世話下さいました先生方、寮母さん方の御
苦労、落合町の皆様の御厚意に感謝の気持ちでいっぱいです。
その頃、小学3年生であった私に、戦争に対する意味や、不安など理解でき
よう筈もなく、唯、日本は戦争に必ず勝つ、と教えられたものです。肉親との
別れも、つらいとは感じていませんでした。それよりも、友達との見知らぬ所
での共同生活に対して、期待すら持っていたように思います。
生まれて初めてはいたわらじ、寮母さんと、5、6人での入浴、食事毎に唱
和した、「兵隊さん、お百姓さん、ありがたく頂きます。」の言葉、秋祭りに、
一人又は数人ずつで、町内の御宅におよばれに招かれた時の嬉しさ、川で泳い
だことも初めてのことでした。神戸では見たこともなっかた雪の日のことなど、
思い出は尽きません。どれもこれも、少女時代の貴重な体験でした。
落合町から見える、静かで美しい遠くの山々も、あの頃と変わりない佇まい
と思います。都会と地方の差もなくなり、全国どこまでも均一化した今日を思
うにつけ、本当のふるさとを持った一時期のあったことを、大切にしたく思っ
ています。落合町での疎開生活は、今も私の心の中で生き続けています。
(95/03/19)
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