疎開9:残留組の子供たちよ! トップページに戻る
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 50年前の明日3.17神戸は最初の空襲を受けました。高羽校区も1部焼失。
そして 6.5の大空襲で壊滅的被害を受けました。疎開できなかった子供らは?
  (高羽小学校の昭和44年3月校報紙より 「旧職員の思い出」T氏記)
 学童疎開をすませた後の残留組の私たちはつらかった。疎開先に送る荷物を
荷車でひっぱり、後押しして灘の貨物駅まで何度も通った。
  学校の南の家が焼けるとき、その熱で校舎のガラスがバリバリ破れた。手押
しポンプでH先生と防火したり、焼夷弾を消したりした。H氏は過労が元で病
死された。日毎夜毎の空襲に真夜中でも学校を守りに走った。
 子供たちは落ち着かず、おびえきっていた。家庭の食事は大豆、こうりゃん、
玄麦、豆粕など、とても子どもの消化できる物ではなかった。職員室は血みど
ろのけが人で満員になり、ベット代わりの運動場の机の上で痛みに堪えかねて
うめいている児童を胸のうずく思いで泣く泣く励ましたこともあった。畳から
床下まで血の海になった。子供たちの家も次々に焼けた。天然記念物の高羽の
楠も焼けた。老松が焼けた時、母と学童が3人も折り重なって焼け死んでいる
姿を見たときは、胸もつぶれる思いであった。後日、「妻と愛児戦死の跡」と
白木の標が建ててあった。その父親の気持ちはどのようであったろう。
 残留組のこんな生活は、写真にも記録にも残し得なかった高羽校のかくれた
歴史である。家庭の事情で疎開ができなかったあの時の、残留組のこどもたち
よ! 今はもう立派な大人になっていると思うが、あの時の苦労がプラスにな
って、どうぞ、それぞれに幸せであってほいい。心から祈っている。

                              (96/03/10)