疎開6:終戦、焼け野の神戸に帰る トップページに戻る
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あきゆきさん、面白くない連載で御免なさい。転載いただければ嬉しいです(浪)
(現 河内長野市 Kさんの手記より)−−−(前略)宿舎に帰り、昼食には
蒸し芋を食べ、皆で楽しく着せ替え人形やお手玉をして遊んでいました。そこ
までは何時もと変わらない状況でしたが、アッちゃんが下から泣きながら上が
ってきました。日本が戦争に負けたことを知らせてくれました。勝つまではと
我慢してきた緊張感が取れたのでしょうか、皆が「わっ」と泣き出しました。
−−(中略)でも食料事情は益々苦しくなり、宿舎では炊事のおばさんが苦労
しておいしく食べられるように一生懸命調理してくれました。(中略)
  10月に入ってからは引き取りのお父さんお母さんが多く見え、残った友達
は早く帰りたい気持ちに駆り立てられました。秋も深まった10月には益々友
達も少なくなりました。11月に入っていよく皆が一緒に長い疎開生活をした
宿舎との別れの日が来ました。高等科のお兄さんお姉さんが私たちの持って来
た柳行季を荷造りしてくれました。もんぺ姿のM先生が私たちにてきぱきと指
示を出し汽車に乗り込みました。(注:1945年の小学4年生です。)
 何度もトンネルを潜って、その日の夜に1年4カ月振りで六甲道駅に着きま
した。夜も更けて辺りは真っ暗闇でした。迎えに来てくれた両親に一人ずつ名
を呼ばれ引き渡されたのです。3月の空襲で家が焼かれたことは聞かされてい
ましたが、翌日、目を覚まして辺りが焼け野原になっているのに、皆がびっく
りしたことでしょう。家の焼け残った人は高羽小学校で再会し、焼け出された
人はまた別の土地の小学校へ移って行ったのです。

                              (95/03/10)